令和6年の元日は、北陸にしては珍しいくらいに晴れ、穏やかでした。
夕方16時10分までは。
その日は実家のある石川県白山市に3歳の娘と来ていました。
午前中に親族の集まりを終え、高齢の両親と片山津の温泉に日帰り入浴に行くつもりでのんびり準備していました。
玄関から外に出ようとした時、スマホの緊急地震速報が鳴り、
おや?と思ったのも一瞬で、すぐに大きな横揺れが襲ってきました。
実家は古いのですぐに子供を抱っこして母と家を飛び出しました。
道路の真ん中で身を低くしてやり過ごそうと思いましたが、なかなか揺れが収まらない。
ーーいつもの地震じゃない、死ぬかもーーー
母の肩と子供を抱きしめながら思わず「怖いかも」と言葉が漏れました。
恐怖の中体感時間で1分くらいその場にしゃがみ込んでいました。
ようやく揺れがおさまって辺りを見渡すと、近所の人たちが慌てて家から飛び出していました。
そこからは津波警報が出て小学校に避難し、余震は続いていましたが、21時ごろに自宅へ帰りました。
死ぬということは
あれから少し時間が経ち、被災地の状況が明らかになってきました。
子供の帰省を心待ちにしていた父母。
やっと会えた親族が団欒していた時。
また来年も元気でねと話す姿。
そんな幸せな日に起きた地震。
胸が締め付けられます。
連日のニュースに出ていたのは、被災して自分以外の家族を全て失くしてしまったお父さん。
「生と死の堺ってなんでしょうね」
ふり絞るようなインタビューを聞きながら、夫を失くした時のことを思い出しました。
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ちょうど1年前、34歳の時に私は夫を癌で亡くしました。
大切な人と死別する悲しみは言葉にできないし、苦しみの終わりも見えませんでした。
来る日も来る日も耐えるだけの、喜びも笑いも楽しさもない日々が続きました。
なぜ自分が。
どうして。
理由や意味を探し4年ほどを過ごしました。
でも結局意味なんてものは見つかりませんでした。
なぜなら、意味なんてものは後付けでしかないから。
大きなスケールで考えると、
人間が地球を作ったのではなく、地球に偶然の産物として人間が発生したから。
人間は自然の一部。
幾星霜の偶然が重なってようやく今自分は生きているだけ。
人の世はなんと儚いのか。
普段何気なく送っている平穏な日々は、まるで砂上の楼閣のように簡単に崩れ去る。
私たちが生きているのはもともとそういう世界。
死んであたりまえ。
生があれば死もある。
生も死も特別なものではなく、連続している。
それ故に、人は確かにいつの日か死んでしまうけれど、この地球が存在するかぎり、もっと言えばこの宇宙が存在するかぎり、そこに生きたという事実は永遠に刻まれ、この世界と共に生き続ける。
亡くなった人は目には見えないけれど、宇宙に混ざり合って、光や空気、温かさになっていつもそばにいると思っている。
悲しみと付き合う
魂が引き剥がされるくらい悲しい時。
必要なのは時間。
泣いてもいいし、考えなくてもいいし、無理に自分の感情に向き合う必要もない。
辛い気持ちにはいったんカッコをつけて、時間が経って対応できそうなら開いてみればいい。
そして時々じっと話を聞いてくれる人、一緒に涙を流してくれる人、背中をさすってくれる人。
悲しみと共に生きていく心づもり。
こんなにも苦しくて辛い悲しみは、あの人が遺していったものだから。
その悲しみすらも愛しい。
人に備わった忘れるという力。
いい思い出は忘れたくないことばかりだけれど、悲しい思い出は少しくらいその力をかりてもいい。
罪悪感なんて感じなくていい。
心が壊れそうなあなたに文句を言う人はいない。
そうして悲しみは消えたわけではないけれど、大部分は心の底に沈んでいく。
生きていれば色々なことが起こるから、日々の出来事が落ち葉のように重なっていって、日常の中で深い悲しみが思い起こされることはほとんどなくなる。
いつまでもいつまでも変わらないものなどないのだから。
どうか能登の人々の心が1日も早く穏やかになるように。
心から願っています。
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